AwajiPlatz 30Th

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親 | 淡路プラッツプラッツからのメッセージ

親ごさんとの関わりについて ~動ける人がまず動くこと/動かせることから動かすこと~

石田 貴裕

~動ける人がまず動くこと~

今年で23年目を迎える淡路プラッツは元々親ごさん達が立ち上げた団体です。それゆえ若者支援とは言いながらも、半分もしくはそれ以上に親ごさんへの関わりを今も昔も変わらず重要視しています。面談・講座・親の会を通じて親ごさんには“若者本人ができること”だけではなく、“親ができること”にもスポットを当ててお伝えし、時に泣いたり笑ったりぶつかったりもしながら“今家族の誰かができること”をスタッフと共に一緒に考え実践していきます。

それは何のためにでしょう?もちろんそれは若者本人の自立を目指してであり、言うなればそれは同時に家族の自立をも意味しています。ですから、親ごさんもスタッフもスタート時に目指す先は同じであり、若者だって程度の差こそあれ心のどこかでは同じように自立したいと思ったり感じている部分もあるものです(たとえ今はそうは見えなくても)。

その共有目標を胸に、まず親ごさんから若者本人へ、そしていずれ居場所体験から就労体験へ、さらに自立へと向かって出発します。ですが、場合によってはご家族が時間の経過とともにその進み具合の遅さにしびれを切らしてしまったり、即効性のある変化を求めて焦ってしまったり、先の見えない不安感から時間の無駄ではないかと疑心暗鬼になってしまうこともあります。もちろんプラッツも残念ながら万能ではなく、また「自立支援」自体が多少時間のかかる部分もあるので、スタッフとして心苦しく本当に申し訳ないという思いに駆られることもありますが、それ以上に親ごさんは辛く苦しいといった窮地に陥ることだってあります。

そんな時、それでもなお、お伝えしていることがあります。それは、「それでも動ける人が動き続けましょう」という提案です。つい忘れがちな「何のために?」に立ち返り、始めに共有した目標を思い出して、何とか一緒にこの窮地を脱しましょうと。親ごさんも辛い、でも若者本人はもっと辛く苦しく不安で怖くて動けない場合もあり、その場合、若者本人のサポートのために今動ける人は親ごさんだけかもしれないのです。だからこそ、淡路プラッツはまず親ごさんに寄り添うことが本当に大事だと考えています。もちろん若者本人にも寄り添うこと、むしろそれをメインの支援とも考えています。また、「居場所支援」は若者たちのためにあり、スタッフは若者たちとの関わりや繋がりを何より最重要視しています。ですが、誰よりも一番長く彼らに寄り添い続けるのはやはり親ごさんであり、支援機関はあくまでそれをサポートすることしかできません。だからこそプラッツは、ご家族と関わらせていただいている間は、そのご家族の人生と本気で向き合い、若者・家族の自立の形を模索しながら、新たな親子関係を創造しようとされておられる親ごさんに寄り添いたいと考えているのです。

正しい子育ての定義が曖昧なように、ひきこもる若者やご家族に対する正しい関わりや支援というようなものもまた曖昧なものだと思っています。ですが、今までプラッツが関わらせていただいたたくさんのご家族や若者たちとの関わりから、親ごさんが子どもと接する際の「これは避けたほうがいいと思われる関わり方、心の持ち方、姿勢・態度、声のかけ方」などはお伝えすることができます。100%ご自身の家族に当てはめることは難しくても、そこには沢山のヒントやアイデアがあります。それをうまく掴まえて自分の家族に活かすことはとても重要な一歩になると考えています。セミナータイトルにもある通りまさに“親から始まる1歩目”です。それら、いい意味で諸先輩方から引き継いだ“うまくいかなかった関わり”を上手に活用して頂いて、親ごさん自身が行き詰まることなく、決して一人で孤独だと感じることなく、少しでもポジティブでラクに日々過ごせることが何より重要だと感じています。

親ごさん自身が子どもとの関わりの中で、うまくいかなくてもまた立ち上がることができるように、間違ったと思われてもまたやり直せるように。それは“正しい関わり方”を手に入れていただきたい訳ではなく“そのご家族に合った関わり方”を手に入れていただきたいからであり、そこが一番大切なことだと思っています。そして何より、そこに取り組もうとしておられる親ごさんの姿こそが、その後の子どもとの関係性がより良くなっていくことに大きく関わっているような気がしてなりません。

 

~動かせることから動かすこと~

面談・講座・親の会を通じた親ごさんへの関わりは、多かれ少なかれそのご家族が本来個々に持つ「生活習慣」や「家族文化」への働きかけになると思っています。それは言い換えれば、そのご家族の“環境”と“価値観”にアプローチすることに他なりません。これはこちらとしては本当に恐縮な部分もあり、ご家族にとっては「うるさい!大きなお世話だよっ!」という話であり、また、いらんお節介だとも思っています。でも、それでもそこに触れなければ“若者の本音を理解していくこと”とかけ離れていくのもまた事実だと思っています。

「どーせ親に言っても無駄」「わかってもらえない」「今までもそうやったし、伝わるハズがない」「意見を押し付けてくるだけで、勝手やし聞いてくれたことがない」などなど、親に対する気持ちとして実際の若者たちからよく聞く言葉です。これらは果たしてただの不満や悪口でしょうか?パッと聞くと、悪態をついているように聞こえますが、もしかすると本当はただ親に「気持ちをわかってほしい」と思っているのではないでしょうか。心の中で、本当は支えて欲しい、助けて欲しいと思っているのではないでしょうか。ただ、現在の状況では親も子もお互いにそれを素直に言えない関係性が出来上がってしまっている。すなわち個々の家族文化や価値観が邪魔をしてもはや歩み寄れなくなってしまっているのかもしれません。だからこそ、今一度その家族文化や価値観を大きく見渡しながら、何かできることはないだろうか、何か風通しのいい方法はないだろうか、また、どこかに良いヒントやアイデアが転がっていないだろうかなどを、親ごさんと一緒になって考え、探し続けます。同時に、「正直、意味があるんか無いんかイマイチわからんな~」と、親ごさんが感じておられるかもしれない講座や面談にも足を運んでいただきつつ、その中で様々な心境や状況をお聴かせいただいたり実際に試していただきながら、結果の曖昧さやグレイゾーンを含む形でスタッフ共々、時に血眼になって時に必死のパッチで関わり続けるのです(もちろん面談・講座にはものすごく意味はあります)。

もちろん「家族」の事ですので、風通し良くといってもそれは一筋縄ではいかないこともあり、取り組み始めは不器用なものになるかもしれません。ご家族が現状に至るには長い歴史もおありだったはずですので、それを何らか動かそうとするには、やむを得ず“どんくさい関わり”になる場合もあるのではないでしょうか。だって、それが家族であり親子ですもの。親子同士の関わりが、スマートに、スタイリッシュに、なんてそんな今ドキなものにはならないでしょうし、そもそもそんな必要ありませんし、そんなの全然親子同士じゃない、と私は思います。やっぱり親子だから、時にぶつかったり、離れたり、それでもまた歩み寄ったり。例えば、周りからするとどこかいびつな家族関係に見えたり、また他人に言っても理解されないけれど、でも、その親子なりにバランスが取れているような関係性があったり。それでいいんじゃないでしょうか。それが家族であり親子というものだと私は思っています。

ただその中で、年を経て年齢を重ねるとともに家族の関係も自然と変わり、日常を過ごす構成メンバーも自ずと変化していき、例えば、祖父母や兄弟姉妹がいた頃に“当たり前・普通・常識”だった物事や価値観が、今現在は必ずしも当たり前になり得なくなってきている、といった場面もしばしば登場してきます。そんな時、例えば、おせち料理や演歌や様々な風習などの在り方が時代とともに変貌していくように、それぞれのご家族のあり方もまた、その時々に合わせて変貌していけばいいと思うのです。そう考えると、もしかすると少し見かたを変えるだけで、「昔はこうだった」とか「世間体的にはこうだった」などに縛られず、今いる家族一人ひとりにとってベストな関係になるように、日常や価値観のさまざまな部分を見直せる余地があるかもしれません。その中で、もしかすると今まで感じなかったことを感じたり、笑えなかったことが笑えたり、許せなかったことが許せたりすることもあるかもしれません。例えばそこに目を向けてみること、それが「生活習慣」や「家族文化」へ触れることだと思っています。決して無理をすることではなく、広く大きく見渡した時に、可能であれば「動かせることから動かすこと」。それもまた親から始まる第一歩ではないでしょうか。

時代や世代とともにご家族との関わりも変容していきますが、私自身、今までの多くのご家族との関わりがあったからこそ、それに支えられまた裏打ちされて今のこの親ごさんとの関わりに行きついていると感じています。もし、見失ったならまた始めに立ち戻り、若者・家族の自立を見据えて今できること。『動ける人がまず動くこと』『動かせることから動かすこと』。淡路プラッツは、その親ごさんの一歩目に寄り添うところからスタートしたいと思っています。

カテゴリー: スタッフエッセイ

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会話

藤村 泰王

以前、ネットを見ている時に目に留まった本がある。その本は購入しようか悩んで結論を出す前にすっかり忘れていたのだが、たまたま本屋に寄ったときに見つけ、思わず買ってしまった。その本の題名は「お父さんがキモい理由を説明するね」(リンダブックスより出版)で著者の中山順治さんとその娘(中学生)がサシでマジトークした内容をまとめた本だ。

僕には2人の娘がいる。まだ幼稚園に行き始めたばかりだが、いずれ思春期に入り、キモいといわれる前に心の準備をしておこうと思って読み始め、まだ序盤と最後のまとめの部分しか読んでないがなかなか面白そうだ。著者は家族からも気持ち悪がられるほど娘を溺愛し、その溺愛ぶりを冷静に批判する娘が色々なテーマ(恋愛・死・生きる意味など)でマジトークしている。それを週1回、3ヶ月間続けたそうだ。

だからといって、将来、自分の娘とマジトークが出来るとは思わないし(出来るならやってみたいという気持ちもあるが…笑)、このエッセイを読んでいる皆さんに親子のマジトークを勧めているわけではない。しかし、若者本人の状況によってはチャンスがあればマジトークするのも若者にとって有意義なものだと思う。

 

 

プラッツでのテーマトーク

プラッツに来ている若者たちもこの娘さんと同じように自分の将来や現状、その他様々なことについてもしっかりと考えている。でもそれらを話す場所がないことや恥ずかしさ、自信のなさからくる「自分が話すことなんか聞いてもらえない」という気持ちなどもあり、多くを語らず、自分の胸の内に押さえ込んでいるように感じる。その証拠に面談の中や居場所の中で若者たちは、自分の考えや意見を話してくれるようになる。もちろん最初から自分の意見などを話してくれるわけではない。

プラッツでは普段何気ない会話の最中や毎週行われるナイトプラッツ(メンバーと一緒にお酒を飲みながらわいわい過ごす)で突然テーマト-クが始まることがある。そして、始まる確立はかなりの高確率!その場にいるメンバーやスタッフ関係なく1つのテーマについて全員に話が振られる。誰かが話し終わると質問したり、途中で突っ込みを入れたりするが最後まで聞き、自分はこう思うなんて意見が出たりすることもある。否定されることなくちゃんと聞いてくれる人がいることで話が出来るのだろうと思う。

 

親子だけでなく

書籍の中で著者は、子どもと話すポイントに自分と子どもの話す量を半々にすること、親の立場を捨てることを意識したほうがいいと書いている。親目線で話すとどうしても「こうしたほうが良い」「それは間違っている」「社会にでたら…」ということを言いたくなり、説教くさくなってしまう。なるべく子どもの意見に耳を傾け、「なぜそう思うのか」を聞くことで子どもの本心を聞き出せたそうだ。

書籍の中のマジトークは著者とその娘さんだから出来た話なのでどの家族にも当てはまる方法ではないが、親子として話すのではなく、1人の人間同士として話すことはどの家族にでも使えるだろうと思う。そして、1人の人間として話すことは親子だけでなく、友人、同僚、上司、部下など全ての立場の人との間に有効だと思う。

 

今回は僕のエッセイでありながら「お父さんがキモい理由を説明するね」の著者中山順治さんの言葉を引用させてもらうことが多かった。次回のエッセイの時には自分の言葉で書きたいと思う。

カテゴリー: スタッフエッセイ

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光陰矢のごとし(2014)

安田 昌弘

今年も早や1年の2/3が過ぎ去りました。プロ野球シーズンが終わりを迎える秋は、私にとっては憂いの時期でもあります。ある意味、私の中ではすでに今年は終わったも同然。ついこの前新しい年を迎えたはずなんですが、もう大晦日の心境。「あっ」という間に1年の2/3が過ぎるくらいです。残り1/3なんて、「あ」ともまともに発音できないくらい、瞬く間で過ぎることでしょう。とにかく、あまり時の経つのが早いのはやめてほしい。「あっ」という間のことで、体感では気づかぬまま、確実に身体のあちらこちらに下降線となって刻まれている… それを果たして年輪というのだろうか…

日ごと、寒くなり、日照時間が短くなるダークネスな季節、ネガティブモード全開です。

 

ネガティブシンキングは良くないのか?

と、ネガティブな面持ちではありますが、私はもともとネガティブシンキングの持ち主です。自然な流れで後ろ向き、さまざまな事柄について、頭の中で目まぐるしくネガティブ展開していきます。ネガティブとは、否定的、消極的、悲観的ということで、ネガティブな人、性格というと一般的にいいイメージは持たれません。しかし、これはあくまでも単に印象ではないかと。根っきりこっきり悲観的で、後ろ向きな人なんてどこにもいないのではないでしょうか。人生、より良く前に進もうと思うからこそ、そのマイナス要素であるネガティブな道が、たくさん、そしてより太く見えてしまうだけなのだと思います。本質的に、人はみな自分を肯定し、ポジティブでありたいと思っています。

ネガティブシンキングには、慎重に物事を見つめ、考えを深めたり、冷静な判断ができたりといい面もたくさんあります。あらゆる困難、課題に対し、常に、冷静に物事をとらえ、あらゆる面から試行錯誤し、局面の打開を図るためこれまでには考えも寄らなかった新しい発想や方法を発見し、光明を見いだす。変ですが、ポジティブなことだらけです。ただ、やっかいなところは、ネガティブシンキングと完全主義は相性が良く、あまり行き過ぎると『重箱の隅をつく』ではないですが、暗黒面にどんどん浸かっていってしまいます。結果、「これは完璧」と思慮を尽くしたであろう道とても容易には飛び込めない。「何か落とし穴があるのでは」と、さらにもつれにもつれるネガティブシンキング。その新たな方向も分かれ道、功罪有り、無性に気になります。『罪』の方が… たまらなく気になります。うずうずします。 -むしろ、その落とし穴を探すのが好きだったりして- 完全無欠は永遠の彼方へ。未来は見通せるなら見てみたいですが、今見切ろうとしても無理があります。

 

ポジティブであるために

普段、私は面談を通して、親御さんそして若者本人のお話をたくさん聴かせてもらっています。親御さんは子どものことで悩み、不安や焦りに苛まされ、とてもネガティブな状態にあります。また、当事者である若者もうまくいかなかったことが素ともなり、性格的にかなりネガティブな面が顕著となっています(それがゆえ、私は若者にとても親近感を覚えるのですが)。しかし、ネガティブには本来ポジティブな側面があるのです。ポジティブにイメージすることはできても、どうしてもその中のネガティブな予測が顔を覗かせることはありますが、ポジティブな面を意識し、行動することが秘策だと思います。はじめの1歩目講座では、親御さんには少しでも気持ちを楽にしてもらえるよう、『ポジティブであるために』ということで、発想の転換を図ってもらっています。若者には、ネガティブな空気が漂うダークサイドにおいて、少しでもポジティブな要素(笑い、安らぎなど)を見つけてもらえるよう日頃から接しています。

物事は、ポジティブに考える方が好転していくとも言われています。ネガティブの人の最良の未来予測の方法は、ネガティブの中でのポジティブ転換ではないかと思います。行ったり来たりにはなりますが、そのバランスの持ち方が大切なのではないかと思います。

カテゴリー: スタッフエッセイ

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親御さんが自分の生活を楽しんで元気でいてください。

「親御さんが自分の生活を楽しんで元気でいてください。」
僕は面談で上記の言葉を親御さんに必ず伝えさせてもらっている。

子どもの相談できているのに「なぜ、親のことまで」と感じる親御さんは多いのではないだろうか。
実際、親御さんの面談の途中、自分の話になると子どもの話に戻そうとする親御さんが多いように感じる。
特に、来所して間もない親御さんはその傾向が強いように感じられる。
もちろん、子どものことが心配で相談に来ているから当たり前のことで、何も間違っていない。
それでも、僕は、親御さんの話に戻していく。

それは、「親御さんが元気でないと本人も元気になるのは難しい」と思うからだ。
これまでのスタッフエッセイでもあったように、プラッツは親御さんへの関わりを大切にしている。

それは、プラッツが親の会から誕生した団体だからだけではない。
家族は不思議なもので、しんどい雰囲気を持っている家族がいるとそれが他の家族に伝わる。
逆に楽しんでいる家族がいるとそれが伝わっていく。
だからこそ、プラッツは親御さんへの関わりを大切にしている。
親御さんが生活を楽しむことの大切さはもう1つあると思う。

本人たちは社会で生活することに不安や恐怖を感じているところがある。
しかし、社会で生活することは不安や怖さだけでなく楽しいこともたくさんある。

本人たちは不安や怖さに囚われ、楽しさに気づくことが出来ていない。
しかし、親御さんが楽しみながら生活している姿を本人達が見ることで、本人たちの不安や怖さが薄れ、楽しさがあることを知る。

親御さんが楽しんで生活するのは本人達のためでもある。だからこそ、親御さんに元気で、楽しんでほしいと思う。

「いいかげんさ」を身につける。
これは本人さんの面談の時によく伝えさせてもらう。
本人たちと面談や居場所で話をしていると「0か100か」、「白か黒か」という極端な考え方をしていることが比較的多いように感じる。間の「どちらでもない」という曖昧さが本人たちには少ない。
僕が言う「いいかげんさ」とは、悪い意味ではなく「いい塩梅」という意味での「良い加減さ」である。本人たちの白黒思考は真面目さゆえであると思うが、それゆえに、縛られていて身動きが取れなくなっている印象を受ける。他人との距離の取り方、物事に対しての考え方など真面目に考えれば考えるほどわからなくなってしまう。だから、自分の心地良い距離や考え方を身につけることが自分を楽にしてくれるんだと思う。

しかし、この「良い加減」は100人いれば100人が違う。面談の中であなたの「良い加減」はこうですよと言ってあげることは出来ない。本人が生活していく中で見つけていくしかないと思う。だから、自分で勝手に見つけてくれというわけではない。見つけていく作業として居場所がある。居場所での様子や居場所での人との関わり方を本人と振り返る中で「良い加減」を見つけていける。
身につけた「良い加減」が社会に出た時に自分の身を守ってくれる。ストレスや人間関係、その他の様々なことにしても真正面から受け止める方法以外のことを考え、実行することが出来るようになると思う。

「居場所」
人には一息つける場所が必要だと思う。この一息つける場所が「居場所」であると思う。
プラッツの支援メニューの居場所というわけでなく、そこに行けば誰かがいて、自分を迎え入れてくれる。
そして、なんでもない話ができ、安心出来る場所。

プラッツが皆さんにとって、「居場所」になれたらいいなと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。

藤村泰王

カテゴリー: スタッフエッセイ

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親にとっても“居場所”?

淡路プラッツは設立21年目となり、当時から続いている“親の会”があります。人数の増減はあれど脈々と続いていることへの畏敬と、変わらず必要とされている状況に心苦しい思いもします。ただ、必要とされる方がいらっしゃる限り、続いていくことを望んでいます。そこは、確実に“親の居場所”となっています。

私は主に、面談を担当させていただいています。なので、若者に関わるよりも、実は親ごさんとの関わりの方が多いです。そこで、私なりに、プラッツが親ごさんにとっての“居場所”になるとはどういうことか…について書いてみたいと思います。

プラッツのメニューでは、親ごさん向けのものは、“面談”“講座”“親の会”とお伝えしています。そこに“居場所”とは出てきません。が、それらをひっくるめて、“親にとっての居場所”となります。

“面談”は、ご家族内のことを個別にお伺いして、お話をお聴きしながら、例えば家庭内での声掛けの仕方や、若者について今後の方針を決めていくものです。その経過のなかで、子どもさんのことでご相談に来られていたはずの親ごさんが、気が付けばご自身のことをお話される場合もあります。「あの時、実は自分はこう思っていたんです…。」「私がああしなかったのは、きっとこういう思いがあったからなのかな…。」など、決して反省と後悔とご自身に対する責めだけではなく、さらにその裏にある思いを語られることもあります。そして、個別の空間なので、ご家族の事情もお話されます。つまり、気兼ねなく何を話してもいい場であり、個々の気づきがあり、それらを元に方針を一緒に決めていく場です。

“講座”は、一般的な概論も含め、ひきこもり・ニート・不登校について勉強することで、親ごさん自身に、客観的に現状を見つめていただけるように…と行っています。日常の中で、若者に対して感情的になってしまったりすることは、自然で当たり前なことだと思います。ご家族なのですから。ただ、時に状況を客観的に見ることで、本当に若者が望んでいるであろうことを捉える・現状をできるだけ感情的にならずに捉えるなどができ、講座はそれを行うきっかけとなります。

“親の会”は、その名の通り、親ごさんが集まって、親ごさん同士で状況や情報を共有する場です。そこでは、面談では語られないことも出てきます。もちろん個々で背景や状況は違えど、“同じ親であること”で共有できることの大きさが、そこにあります。淡路プラッツでは、現在はスタッフが最初と最後に挨拶させていただくのみで、会の中心は親ごさんのみでお話しいただいています。時に、スタッフがいることで、かえって流れを遮ってしまうこともあるからです。そこでは、面談とはまた違った角度での気づきがあります。

以上、3つのメニューを簡単にご説明しましたが、それぞれ特徴もあり、共通点もあります。それが“気づく”ことと“他者に受け止められる”ことです。もちろんそれだけでは進まないので、こちらとしては、具体的なアドバイス・方向性・目標を定めていくこと、場合によっては、より適した他機関をご紹介することもあります。ですが、まずは親ごさん自身が、気づきと第3者に受けとめてもらう経験のもと、肩の荷を少しおろしてもらう。少しだけほっとしてもらう。そして、家に帰って若者と関わってもらう…。そうすることで、声掛け1つとっても、言葉じりではなくニュアンスが違ってきます。そうすると、若者への届き方が変わってきます。その循環で、家族間のコミュニケーションが変化していくこと…を目標に、親ごさんと関わらせていただいています。

そう簡単にはいかないものです。特効薬もありません。なので、親ごさんにも根気が必要とされます。でも、おひとりで、もしくはご家族間のみでは、息詰ってしまうと思います。その時に、気兼ねしなくていい、第3者に話せる“居場所”を、持っておいていただけたらと思います。

浅井紀久子

カテゴリー: スタッフエッセイ

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