淡路プラッツ

特定非営利活動法人青少年自立支援施設

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スタッフエッセイ | プラッツからのメッセージ

安原 彩子

 前回ゆうほどうを書いたときは、寒い季節にオススメのセリア・クルスのラテンな1曲を紹介しました。が、あっという間に季節は夏!ただただ流れていく日々を過ごしていることが多いのですが…。そんな時でも立ち止まって、自分のこととして考えることの大切さがあると思うことがあったので今回はそれを書きたいと思います。(メキシコねたは封印で・・・)

2011.3.11 14:46

今年のゴールデンウィークは、思いもかけず宮城県に行くことにしました。東北大震災の復興ボランティアです。

2011.3.11あのとき皆さんは何をしていましたか?私はまだプラッツにいませんでしたが、大阪でも多くの方が長いめまいのような揺れを感じたように私もすぐに地震だとは思わない揺れを感じたのを覚えています。

3ヶ月後の6月に私は、福島県双葉町からあの福島原発から避難されてきた方々のケアをする赤十字の

ボランティアに参加していました。原発から約100KM離れた会津若松市のホテルに最小限のものだけを持っていつ自宅に戻れるか分からないまま、このホテルに辿りつくまでに3回も移動させられた方、ここもいつまでいられるか分からないという状況の中でたくさんの方が避難されていました。

「今年は米を植えられるかなぁ。」「いつも畑仕事してたからじっとしてると体がなまるわ。」と話す高齢者の方や、「夫は第二原発で事故処理をしているのでしばらく会えないんです…。」と話される女性。「大阪からわざわざありがとう。」と大変な状況にあってもボランティアに気遣ってくださる方。いろんな感情があったと思いますが、誰に文句をいうこともなく、嘆き悲しむ姿を見せず、忍耐強くという言葉が一番当てはまるような態度で過ごされていたのが印象に残っています。

あのときから

あれから5年。津波で大きな被害がでた宮城県の閖上地区(ゆりあげ)へ行きました。

5年前、テレビで見た津波の映像。映画でも見ているようであまりにも現実離れしていて、自分のこととして想像できる範囲を超えていたあの景色が目の前にありました。

5年経って、未ださら地。「さら地にするまでも大変だったんだよ。」と話されていました。海から約1KM離れていた場所でも家がポツポツ残っているだけ。「仙台市までの通勤圏内なので住宅がいっぱいありました。」と言われても想像できないくらいに広々としたさら地の向こうに津波でまばらになってしまった防波林の松が遠くに見えるほどでした。今後の災害にも備えて土地をどのように活用して街を創って行くかという課題もあり、なかなか復興に動けないということも知りました。あの日娘さんが家にいるお婆ちゃんを見に行ったまま津波にのみ込まれたと話す方、もうここに住めないと故郷を出た方、震災前の家と震災後に建てることになった家の二重ローンを抱えた方。「復興って何ですかね。」と問う方。実際に被災しないと本当の辛さや苦しみを理解することは難しいかもしれませんが、現実を知ること、自分のこととして考えてみることで気づくことがあると思います。それは震災に限らず、戦争やテロのことひきこもりや子どもの貧困等についても同じことが言えるのではないではないかと私自身気づけた体験になりました。

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変化を見つける

藤村 泰王

今回、このエッセイを書くにあたり、あれこれ考えてみたものの、なかなか浮かばずパソコンの前に座っては諦めを続けていた。そんな中、急に、歩きながら考えてみようと思い立ち、散歩に繰り出してみた。目標を決めず、ちょっと疲れたら帰ろうと軽い気持ちで…

結果はというと、とてもいい運動になった。いや、かなり疲れた部類に入ると思います。

歩くことに集中し、疲れてしまい、当初の目的であったエッセイの内容を考えるということが全くできていない事に愕然としてしまった。歩きながらいろんな不安を感じ、歩くことに集中しすぎてしまいました。

その不安とは、まずは気温の高さ。夏の暑さが苦手な僕は、外に出た瞬間に「無理かも知れない」と感じ、散歩を諦めようかと思ったこと。

そして、目標を決めず歩いていると、どこまで歩けばいいのかわからなくなり、不安に襲われたこと。

もう一つは、普段、ほとんど運動しない中で、思った以上に遠くまで歩いてしまい、暑さに体力を奪われ、帰れるのか自信が持てなくなってしまったこと。

もちろん、ちゃんと家に帰ることはできたのですが…

なぜこんなことを書いたかというと、僕が感じた「苦手な事へ動き出す不安」、「先の見えない不安」、「自分自身への不安」。これらは、動き出そうとした本人・家族、もしくは、動き始めた本人・家族にも似た様な不安があるように思います。

決意して動き出そうとした矢先、様々な理由から一歩が踏み出せなくなってしまった、動き出したら先が見えてくると思っていたのに見えてこない、思ったように先に進めないことに不安を感じてしまう。そして、動き出せて安心と思っていたのに新たな不安が生まれてくる。これらに似たような事を本人・家族から見聞きする事がよくあるように感じます。

僕は、足踏みしたり止まってしまったりすることがあっても、おかしなことではないと思います。

そこに注目するよりも、動き出そうと決意したこと、動いてきた一歩一歩に注目することの方が大切だと思います。

なので、不安に感じた時、一歩が踏み出せなくなった時は、過去の姿と比べ、いい変化を見つけてもらえたらと思います。そうすることで、これから先も変化していくことが想像しやすくなり、不安を和らげたり、足踏みしても、ちょっと立ち止まってもいいかと思えるのではないかと思います。

このエッセイを書いている最中に、相田みつをさんの「つまづいたっていいじゃないか、にんげんだもの」がふと浮かんできました。

動いては止まり、つまづいたり、足踏みしながらでも、少しずつ前に進むことで大きな変化に変わり、それが自信になり次の一歩に繋がる。それを繰り返していくことで、確実に前に進んで行けるようになると思います。

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“あ、これ、前にもあった!”と思えると

浅井 紀久子

 今年度、何年かぶりに(たぶん5年ぐらいには、なるでしょうか!?)、サテライトの事業責任者になりました。報告書作成や経理事務などの裏方としては継続して関わってきていたのですが、現場に入るのは、久しぶりです。あれやこれやと記憶を辿りながら、必死の形相で色々な書類を作成し、わいわいと楽しく通所(本体でいう居場所)で小・中学生と関わる…。何ともギャップのある日々です。

~現場とコーディネートと~

間が空くと、そうそう、これこれ!と思う瞬間と、あれ、これでよかったっけ?となる瞬間があります(主に、事務的な面で)。当然ですが、変わった部分もあります。以前頭に叩き込んだ、書類の書き方の記憶を、修正したり。思いがけず、過去の記憶が邪魔をしてきたり。むむぅ…、となっているかと思えば、子どもたちが来る時間になって、一緒に色々取り組んだりして過ごすのが、楽しい…。そして、以前は気付かなかった視点で、自然と関われている部分もあったりして。

他に違いといえば、指導員さん(大学生を中心に、学生さんが多い)との年齢差(笑)。指導員さんとお話することも、色々教えてもらえることも多くて、新鮮で楽しいです。

その他の時間で、相談員さんとも情報交換して、市担当者の方ともお話しして、一人一人の目標や方針を考えて、会議出て、事務処理して、通所のイベント考えて、研修考えて(もちろん、全て私一人ではないですが)…。あぁ、現場とコーディネートと、バランスが難しいのは相変わらずか。

~良くも悪くも経験値~

こうして思い返してみると、以前はここで焦ってたなぁ…とか、こういう時、どうしていいかわからなくて、困ってたなぁ…など、色々思い出すことがあります。今から思うと、わからないことがわかってなかった…みたいなこともあったり。今は、以前あまり気づいてなかったポイントで、戸惑ってみたり悩んでみたり。過去携わっていたとはいえ、悩みがつきることは、ありません。

ただ、確実に、過去の事が経験のベースになってるなとは、実感します。特に、動揺する率が、減った気がします。“あ、これ知ってる…”“あの時はこうしたけど、こういうこともしたら、どうだろうか…”という感覚が、とりあえず気持ちを落ち着かせてくれるというか…。気持ちが落ちつくと、少しでも冷静に判断できる部分も多いですし。サテライトから離れていた期間で、多少なりとも視野が広くなったこともあり。

それは、図太くなったといえば、そういうことかも。でも、悪いことではない気がする。

今回、久々に、同じ事業の同じ業務に戻ってきたことで、わかりやすく過去の自分と直面することになりました。穴があったら入りたい気持ちになったり、思い出して「ぎゃーっ」と言いたくなることもありますが、そういった諸々も全て糧にしながら、今年は今年のメンバーで、今年の通所をやっていこうと思います。

何事も経験…そして、その時点では無意味(というか、意味があると認識していない)なような経験も、巡り巡って自分自身を助けてくれることがあることを、改めて感じる日々です。

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“表現力の居場所”  線を引こう、一歩目のエッセンスが必要なときに…

artplatz-logo

 

『アートプラッツ』って、なんだかゴロがいいと思いませんか?

線を描く……実は、4~5年前から構想があったんです。もともとプラッツのいろんな場面でメンバーや関係者や、いろんな方と表現活動をさせてもらう機会がありました。プラッツの通常の居場所活動の中でも時々してたんですけど、こんな感じを切り口にもっと「表現」に焦点を当てた居場所があったらいいなと。
何もない紙に線を引いたり色をつけたりするところから、ちょっと考えたり悩んだり工夫したりしながら、誰かと過ごす居場所。小さな「無から有」をたくさん体験して味わって、共有する!なんか想像するだけで楽しい……だが抽象的……(しかもなんと地味な楽しみ……)。

面を作る……「表現」といっても音楽とか身体とか入れたら可能性は無限にあるんですが、まずは地味でオツなところからはじめます。やっぱ「線を引くこと」。その次は「光と闇」とか。「素材」もおもろい。「見る」もクセになりますよ。こんな感じで禅っぽいですけど、簡単なタイトルの時間を今年は6回くらい作りたいと思っています(ほんまはもっとやりたいが…)。
“上手い/下手” “きれい/きれいでない” “器用/不器用” なんかは全く関係ない世界です。
味わえたらいい、それだけなんですが、自分自身が引いた線を見て、味わえて、3割くらい納得できた積み重ねは、大いに自分を元気にします。

立体になる…プラッツのフィールドでするのは非常に意味があります。プラッツに関わる方はもちろんですが、居場所には来にくい方や、居場所支援にはつながりにくい方、親ごさんとか、年齢なんかも関係なく参加していただけるかな、と考えております。普段私が、中学生から80歳の方まで関わっておりますと、話題と知識は差がありましても“感覚・感性”は共感できる部分も多いと感じます。そういうところで、年齢・立場を超えて共感・共有できた体験は、これもまた知らないうちに元気のモト、自信の栄養、心のおやつになっていくようです。

閑話休題…「プラッツ」という名前をつけた人たち(当時のメンバー?)のセンスに頭が下がります。「○○プラッツ」って、何でも使えるんですよ。定例ものから単発ものまで、おおよそプラッツで遊ぶほとんどの内容に名前を付けることができます。ナイトプラッツ、カクテルプラッツ、徹夜プラッツ(なんか夜ばっかりか)、お掃除プラッツ、音楽プラッツ、……というわけで、「アートプラッツ」もその遊び心を踏襲しつつ広げてまいります。

時間ができる…というわけで、お気づきかもわかりませんが、アートプラッツは少々謎めいたコミュニケーションのエクササイズといえるかもしれません。社会参加に自己表現は根源的に必要ですが、アートプラッツが、若者にとってはその一歩一歩を、「感性」を前面に積み上げていくツールになればとおもいます。また、社会参加はしてるけどちょっと一休みの居場所も欲しい方のエンパワメントの場ともなればと、現在企画を練っているところでございます。

宮武 小鈴

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「イベント」の意味と可能性

石田貴裕

 今までプラッツに通ってきてくれていた若者たちの中で、この先どうやって社会に繋がり、どういう形で自立していくのかを、出会った時から予想できた若者はほとんどいません。みんないい意味で、私の予想を裏切る形でプラッツを出ていきます。「あ、意外とそっちのジャンルに行くんですねー」とか、「おぉ、そんな繋がり方もあるんですねー」など、実に様々です。もちろん、それは親ごさんにもわからなかったでしょうし、本人ですら予想だにしなかった形で旅立っていくことがほとんどでしょう。それでいいし、それがいいと思います。その時点では可能性は無限大で(本人たちは希望薄で来ることがほとんどですが)、人生何があるかわからないから面白い。だから進んでいけるんだと思います。

「こうなるよ」ってわかっていたら楽しくないし、進みたくない。反対に「どうなるかわからない、お先真っ暗」でもこれまた進めない。多くの若者たちから聞く、この“暗黒すぎて進めない”と“真っ白で広大すぎて進めない”の二極化は、彼・彼女らが抱える特徴でもあり、絶望も達観も根底では実は繋がっていて、どちらにしても動けないもどかしさ、苦しさ、怖さ、しんどさがそこにはあります。いずれにせよ、そのような不安を抱えた形でひとまずプラッツに繋がってきてくれる若者や親ごさんがたくさんいます。それを受け止め、受け入れる場所が「居場所」であり、「親の会」であり、「プラッツ」です。まぁまぁ、ボチボチまったりやろうよ。ほんで、もしやりたくなったら何かやろうか。それまでひとまずのんびりしてようよ、的な。もちろん、そこは探りだせば方法論や支援論も見え隠れするかもなのですが、それはそれとして入口がフワフワとこんな感じなので、ゆえに出口も、いい意味でフワフワと予測不能でスタートしていきます。

話は変わって、イベントについてですが、最近プラッツでは久しぶりのバンド活動が始まり、個人的にも楽しくなってきています。楽器は難しいイメージがありますが、やってみると案外「いけるねー」と出来たりします。そもそも、上手い下手は関係なく、みんなでピタッと合う瞬間があると「おぉー!」と感動するのですが、バンドに限らず、イベントにはこの「おぉー!」がたくさんあります。例えば、楽しかったり、感動だったり、発見だったり、興味深かったり、納得したりなど、何にしろ「おぉー!」と“心が揺れる瞬間”が大なり小なり出てきます。それは言い換えると、内容やタイミングによって「イベント」には、絶望や達観で固まり委縮している若者の気持ちや心を動かせる可能性があるということです。もちろん、そこには人との信頼や関わりがあってのことですが、それを経て「じゃ、やってみようかな」という瞬間があって、そこをイベントが一役買うことになります。

それはいつ?どのイベント?という話になるのですが、これが先の出口の話と同じく、予測不能というか、よくわからない部分を多く含んでいます。例えば、音楽聞くのは好きだけど演奏には興味ないように、また、食べるのは好きだけど料理は好きじゃないように、何が引っ掛かりになるのかがよくわからないことも多く、結局こればっかりは謎なのです。興味はあるけど参加しない・できないこともあれば、全然興味ない感じだったのに当日突然参加してみたりも日常茶飯事で。そこには様々な事情があるので全然OKかつ問題ナッシングなのですが、ともかく予測しきれないという事実があります。だから、数打ちゃ当たる的に、たくさんのイベントをみんなで話し合ってひとまず立ててみます。人や場の雰囲気や時期に合わせて、例えば、TVゲーム、ボードゲーム、アート、バンド、料理、お茶、カラオケ、ボーリング、ビリヤード、ソフトボール、フットサル、映画、お出かけ、旅行、などなど。今年度は日本舞踊、太極拳、ステンドグラス、そば打ち、などもやってみました。でも、目新しいからといって必ずしも参加が多いという訳でもなく、これまた読めないのですが、意外と(と言っては失礼ですが)いつも人気で参加者が多いのが「お茶」だったりします。なぜ?お抹茶が飲めるから?和の心?私には見当もつきませんが、要するにお茶に限らずイベントにおいては、参加予想は結構外れたりして毎回その連続だということです。それでも、何かのタイミングで誰かの引っ掛かりになることも大いにあり得るので、その一瞬のために色々なイベントを模索しているのです。

実際、誰がどれに参加するかは蓋を開けるまでわかりませんが、イベント体験は良くも悪くも若者たちの心を揺らし、その経験はまた次へと繋がるかけがえのない一歩になっていきます。面白かったか面白くなかったでも、しんどかったかしんどくなかったでも、もう充分かまたやりたいでも、感想は何でもいいと思います。大事なことは、想像だけではなく本当の実感がちゃんと伴ったうえで“経験して感じること”、これに尽きると思います。そして、この“経験して感じること”だけは、親も他の誰も肩代わりしてあげることができません。だからこそ、イベントを通して自分でリアルに感じること、「おぉー!」と心が揺れることを、出来るだけたくさん体験できるといいなと思います。もしかすると、絶望や達観が邪魔する部分もがあるかもしれませんが、それでもイベント体験を通じて「いいことばっかじゃないけど、悪いことばっかでもないかな」と思ってもらえる居場所でありたいと思いますし、そんな社会であって欲しいと心から願います。なんてことを思いながら、日常は“愛すべきアホらしいイベント(exラーメン梯子食い)”から“壮大なイベント(exメキシコ旅行)”までを、分け隔てなく愛でる毎日です。

結局のところ、イベントも出口も何がきっかけになるのかはわからないですし、どうやって旅立っていくのかもはっきりとはわかりません。でも、逆に言うと何でもがきっかけに成り得るということですし、だから人生は面白いと思うのです。これからもたくさんのイベントを通じて、また新しい誰かの一面に出会い、その先の一歩に関わっていくことを続けていこうと思っています。

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La(ラ) vida(ビダ) es(エス) un(ウン) carnaval(カルナバル)

安原 彩子

「人生はカーニバル」

今年は暖冬といわれ、寒いのが苦手な私にはまだ過ごしやすい方でしたが私が好きなメキシコに比べればかなり寒い日本。冬は余計にメキシコが恋しくなります。そして、メキシコよりさらに暖かいお隣の国、キューバ。カリブ海に浮かぶキューバの音楽を聞くだけで体温も上がる?サルサ界の女王、キューバ人セリア・クルスが歌う「La vida es un Carnaval(人生はカーニバル)」は、孤独だったり、傷ついたり、つらくてココロが凍りついているようなときにもおススメです。

 

Ay, no hay que llorar            泣くことはないのよ

Que la vida es un carnaval   人生はカーニバル

Es mas bello vivir cantando   歌って生きる方が素敵でしょ

 

セリア・クルスの見た目の度迫力と歌唱力、そしてサルサのリズムに圧倒されて、私は「そうかも・・・」と、単純に思ってしまいます。(笑)

そして、「人生はカーニバル」まさに、ブラジルは今がカーニバル!普段は貧しい暮らしをしているブラジルの人たちが1年に1度、贅を尽くして着飾り、きらびやかな山車のまわりでサンバを踊りながら練り歩き、人々が熱狂するカーニバル。日本で言うなら「お祭り」にあたりますがイメージは全く違う。でも…

 

えらいやっちゃえらいやっちゃ ヨイヨイヨイヨイ

踊る阿呆(あほう)にみる見る阿呆

同じ阿呆なら 踊らな損損(そんそん)

・・・ブラジルと同じ血が流れているとしか思えないのは私だけでしょうか?(笑)

 

「人生はカーニバル=お祭り=マラソン?」

プラッツでマラソンと言えば「大阪マラソン石田さん」ですが。実は私も同じころマラソンを始めていました。

友達が初めて10キロマラソンに出るというので応援しに行ったとき、まさに私の頭の中に「同じ阿呆なら走らな損損♪♪♪」・・・流れてきました。(笑)

それから10キロマラソンに参加するようになり。しかし、42.195キロなんて絶対ムリムリムリ。とさらさら走る気になんてなりませんでした。が、ホノルルマラソンに誘われ、ハワイに行きたい!という理由で、とうとうフルマラソンに出ることになりました。

ホノルルマラソン当日。朝5時スタートに大勢の人たちはさらに早くから集まりだし、DJはハイテンションでスタートを盛り上げ、アメリカ国歌が歌われ、ついにスタートと同時に花火が上がる。まさにお祭り。

私のように初マラソンの人、何度も走っている人、伴走者と走る視覚障害の人、仮装している人、アーミー(軍隊)の人など等、老若男女みんなそれぞれにゴールを目指します。途中で歩いたり、足が痛くなって止まったり、休んだり、トイレに行ったり、くだものやおかし、ポテト、ビールをもらって食べたり飲んだり(地元の応援の人々の差し入れ)。(ある人は途中でマクドに行ったり、家でシャワーしたりする人もいるとか)とにかく42.195キロの道のりをその人のペースでその人なりに進む。

それからマラソンは長くてつらくてしんどいと思いつつ。当日は走る人も応援する人も、お祭りのようなにぎわいでワクワクするマラソンが好きになりました。あと、自分が走るようになって気付いたことがあります。それまでは私も「がんばれ~!」と応援していましたが、「もうすぐ給水所あるよ」とか「あともう少し」とか、「その調子!」とか。「がんばれ~」といわれるよりも頑張れる。

是非、騙されたと思ってセリア・クルスの歌を聞くか、マラソンしてみてください。寒い日本の冬を温かく過ごせるかもしれません。(笑)

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”余裕”

藤村 泰王

皆さま、新年あけましておめでとうございます。

この冬は、暖冬となり、例年ほど寒くない日が続いていますが、予報では急に寒くなる時期もあるとのこと、お体にはお気を付け下さい。

 

私事ですが、昨年の12月は一ヶ月ほど喉の痛みと咳に悩まされ、なかなかつらい一ヶ月でした。

そして、年末の休みに入り、大晦日にはやっとおさまり、よい正月を過ごすことが出来ました。

皆さんはどんなお正月を過ごされましたか?おせちを食べ、『年賀状』で旧友や親戚等の近況を知り、ゆっくり過ごされた方、突発的な出来事であわただしい正月を迎えられた方と様々な方がいらっしゃると思います。

新たな一年が始まり、気が早いですが『お花見』や『花火大会』など楽しみが待っています。しかし、これらの季節の行事や町の変化、人の変化、草花の芽吹きなどは体力的にも精神的にも余裕がないと楽しめなかったり、気づかなかったりします。

私は、年末に体調が悪いこともあり、余裕がなかったのでしょう、季節や町の変化に全く気が向かず、気づけば『クリスマス』だったり、知らない間にほぼ毎日通る空き地に家が建っていたりと驚くことが多々ありました。

でも、年末年始の間で心身ともにやっと余裕を取り戻せたように感じています。

 

気づかないうちに無くなってしまう余裕、これがなかなかの曲者なのです。先ほども書いたように、様々な変化に鈍感になり、イライラし出し、そして周りの全てが悪者に見えてしまう。こうなってしまうと、負の連鎖が始まり、さらに余裕がなくなっていく…。

皆さんは仕事や子育てや家のこと、様々なことに追われているうちに、趣味や好きなことを忘れがちになり、ストレスをため込んではいないでしょうか。

 

余裕がなくなると周りが悪者に見えてくると書いたように、人のどうでもいいことが許せなくなったり、今まで気にならなかったことが非常に気になったり、言わなくてもいいことを言ってしまったりと家族や他の人との関係にも影響してくるように感じます。

 

今年の抱負:意識して余裕を持つ!

以前より、意識して余裕を持つようにしていたつもりですが、昨年の年末のこともあり、余計にこのことを考えるようになりました。特に「気持ちの余裕」を持ちたいと思っています。

空を見上げたり、道端の植物に目を向けたり、その中で興味を惹かれるものが出てきたら取り合えず、自分なりに調べたり、やってみたり、そこから派生して別のものに興味がでたりと考えるとちょっとワクワクしてしまいます。なので、余裕を持って日々の生活を楽しみ、色々なことに興味を向け、挑戦できればいいなと考えています。

 

最後になりましたが、皆様にとってよい一年でありますようにお祈り申し上げます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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“本が捨てられない!?”

 金井 秀樹

 誰の作品だったかは忘れてしまいましたが、10年以上前に読んだsf小説で、地球上の人間関係や諸現象に倦んでしまい、新しい惑星に一人で住み着いた王様(不老不死の状態だったかどうかは思い出せないのですが。)が、とうとう魂の平安の地を手に入れ喜んだと思いきや、次に永久に自分自身と向き合うしかないという、絶対的な孤独に耐えられなくなってしまいます。そして最後には、必応答可能性のある知的生命を必死に創造しようと試行錯誤する。そんな物語だったと記憶しています。当時は「万が一神さんが存在しているとしたら、寂しくなって人間を創造したんだろうナ」とか、「ナンてことだ。どれだけ人間関係から逃げたとしても、究極はこういう結果になるのか!」とか…、自分なりの解釈と勝手な納得をしたものでした。

 

一般的に居場所を修飾する言葉にはいくつもの連想が成立するようです。例えば、これから行く、帰るべき、癒しの、楽しい、誰かが居る、愛すべき、変化する、不変のなど・・・。個人的な感性や好みが反映する余地がたくさんありそうですが、ある程度どれも前向きな表現があう様ですね。さらに一般的な意味での居場所を、どこか具体的な場所に置き換えて連想してみると、例えば学校、職場、プラッツ、自室、友人の集まり、家族、喫茶店、スポーツクラブ、電車やバスの車中などなど。おそらく種類も意味も考え方も、人の数だけあるのかもしれません。つまり思い切って言ってしまえば、まず自分自身が「そう」思いさえすれば、「そこ」が居場所になり得る訳です。

 

ところで最近この本と別れようか残そうか…、最後の決断を迫られるその刹那、無作為に拾い上げた本を読むことで、今まで面白くないと思っていたものが急に面白くなることがあるものです(結局はそうやって決断を先延ばしするのですが。笑)。

その一つが自分の作った法律によって裁かれ追放された、秦の法家の商鞅(しょうおう)の話でした。法律を厳密に作り込み、そして徹底的に運用していくことで皆の幸せが実現できると考えた商鞅は、最終的に自分が逃げなくてはならなくなった時、「身分証明書がなければ勝手に宿に泊まってはならない」という、自分が作った法律に背くことで処罰の対象になってしまいます。つまり「これ(ここ)しかない/だけ」と決めつけてしまったら、人の質的・時間的な可能性や幅に対応できず、決めつけたこと自体に疎外され・裏切られていくという感じでしょうか(決して法律の否定ではございません。)。

 

さて、先の「王様と孤高の惑星ただひとり物語」です。「関係の濃淡に関係なく、この惑星で(coffeのコマーシャルのようだ!)必ず誰かが居る前提で生きていられること自体、最低限は自分を孤独から守ってくれているのかもしれない。」と、その後単なる読書感想が自分の中でさらに発展して、普段街ですれ違う良く知らない人々に対しても、急にありがたい気持ちが沸くようになったものでした。名付けて「存在の肯定的相互扶助の一側面」。相当飛躍はしてますが(笑)。

ところで、こういう考え方の持ち主にしてみれば、自分自身が「そう」思えば居場所な訳ですから、捉え方によっては、「自分自身の居場所はこの世界」と言ってしまってもいいのかもしれませんね。ただもちろん決めつけは良くないのです。ではまた!

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“笑いとは・・・”

安田 昌弘

年末年始はお笑いのシーズン

今年の12月、5年ぶりに漫才のM-1グランプリが復活します。「待ってました!」ということはないのですが、なんとなく楽しみにしています。それが終われば、やがて大晦日。大晦日には、もういいかなぁと思いながらも「ガキの使い・・・絶対に笑ってはいけない24時間」で年越し。今年も放送するのでしょうか、この番組。笑わずにはいられません。ほんと、「お笑い」っていいなぁ(おもろいなぁ)と思います。僕は子どもの頃から大のお笑い好きで、めちゃめちゃTVで見ていました。今でこそ若手芸人の笑いのセンスについていくのがやっとですが、できるだけチェックしながら、お笑いを追及しています。年の瀬ともなると、そんな時季が今年もやってきたなぁと思います。

 

とにかくおもろいしゃべりを

僕は、普段の何気ないコミュニケーション時、おしゃべりをする時は、とにかくおもろい言葉を織り交ぜると、心に誓っています(大げさ!)。関西人は二人いると会話が絶対に漫才になるというぐらいなので、僕にも子どもの頃から知らず知らずのうちに、「絶対おもろいことを言うでぇ」的なお笑い精神が宿っています。私の笑いの師匠をあげるとすれば、吉本新喜劇でしょうか。30年前当時の吉本新喜劇は本当に面白かった。現在は、少々色あせて来たものの、「乳首ドリル」ですね(ご存知でしょうか?)。ちょ~くだらない感じなのですが、あのワンパターン、かぶせにかぶせまくる、あれが吉本新喜劇の真骨頂。腹立つくらい笑ってしまいます。そして、漫才ブーム(古!!)。これも僕のお笑い魂の原点なのかなぁと思います(芸人ちゃうちゃう!!)。そんなお笑いに影響を受け、常々面白フレーズが頭の中でグルグル廻っています。

 

笑う門には福来る?-おもしろく在る

だから、とにかくおもしろく在る。そして、面談、居場所、そして講座などの場面でも、そのような事を意識しながら臨んでいます。面談にて、親御さんを、若者を、僕の笑いによって、悲しみ、苦しみ、悩みから解き放とうと考えているわけではありません。そんな技術があるようであれば、今すぐ欲しいです。また当然ながら、ふざけてやっているわけでもありません。悩みは一気に好転するという事はなく、行き止まり感ばかりの現実、でも日々そのような悲嘆の中にありながらも、とにかくは笑いがあるように。「笑う門には福来る」といいますが、笑うと福が舞い降りるのかどうかは僕にはわかりません。笑うことは、健康に良いとも言われていますし、ストレスの発散にもなり、心の健康にも良いでしょう。ただ、そんな格言的、効力の側面はさて置き、単純に考えてみても、笑いがある方が、会話も楽しいし、とても愉快で気持ちがいいです。本当は超ネガティブ思考の持ち主の僕ですが、笑いがどこかしらポジティブへと運んでくれているのかもしれません。

ただし、人を笑わせることは難しい。受けを狙うとド壺にはまる、リズムもガタガタ、とても笑えない(汗)。なんでそこまでして人を笑わせないといけないのか...、と、そこは、関西人のサガ...。自分のおもろい壺が、相手のおもろい壺とは限らない。笑いはボケとツッコミのハーモニー、語り手利き手双方の息が合うことが壺です。ネタを繰り、掛け合いの間を探るとコミュニケーション力も鍛えられます。なかなか、お笑いは奥が深い。みなさまも、日常の何気ないことに次から次へと『ノリツッコミ』をしながら、お過ごしになられるというのはいかがでしょうか(笑)。

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“初めまして”

浅井 紀久子

どこからともなく金木犀の香りがただよい、すっかり秋になりました。今年は“秋”がちゃんとあって、なんとなく嬉しく思っています。(確か、昨年は残暑厳しく、寒くなるのも早く、“秋”があまりなかった気が…)やっぱり、四季って、いいですね。

 

さて、何だか妙なタイトルなのですが、もちろん、私の初記事…ではなく、今回は、私が様々な方に“初めまして”でお会いする時の心持を書いてみようと思います。

 

~初対面~

まず、プラッツの面談は、初回は親御さんのみでさせていただいています。それは、親御さんにも、実際に見ていただきたいこと・直接会って話しをしていただきたいこと・そして、プラッツとしては、親御さんとの二人三脚でご本人に関わっていきたいという方針などから、そのようになっています。(もちろん他にもあると思いますが。)そして、“初めまして”は、面談のみではありません。説明会・講座・親の会…色々な形であります。

その“初めまして”を伝える瞬間の私は…もちろん緊張しています。初めての方とお会いするわけですから、何の緊張もないなんてことが、あるわけがありません。(言い切っていいのか!?)ただ、それ以上に、来所される方々のほうが、緊張や不安や猜疑心、「来たくて来たわけではない」などなど、様々な気持ちを抱えて、それでも足を運んでこられているということを思って、まずは“初めまして”の挨拶をしています。

そして、これは、ご本人が初めて来所されるときも、全く同じです。例え、その後話すことが、雑談であれ、悩みであれ…です。

 

~個と個として~

そして、話が進んでいくわけですが、そこでは、自分の緊張などは横に置いといて、様々なことを可能な限り、客観的にお聞きしています。今、話してくださっている内容・表現・言葉尻が、本当にその方が伝えたいことを表しているのか。本当に訴えたいことは、どこにあるのか。何が好きで、何が苦手で、何を感じているのか…。そこは、個と個として、対面する姿勢を意識しています。私自身の感情や価値観を、頭の片隅に置きつつも、あくまでもそれは、一旦置いておく。目の前にいる方の事や、その方の周りにいる方のことを、少しでも知っていきたい。単なる推測でしかないけれど、その推測だけでも、視点が変われば、今まで気づかなかったことに、気づけるかもしれない。押しつけにならないように、こちらが感じたこと・やり方一つでも、そこはお伝えする。そして、当然のこととして、知られたくないことには、踏み込まない。

一方で、環境・状況はどうなのか…。その方のリソース(そのご家族にとって、資源となるもの)は何なのか、どこにあるのか、何かプラスすると(情報提供など)、歯車がかみ合うだろうか、何とか少しでも繋ぐことができないだろうか…。

 

~言うまでもないことだけれど~

“初めまして”から、回数を重ねてお会いしていく場合(形態に関係なく)、このことの繰り返し・積み重ねで、深まっていきます。

よくある(心理ベースの)相談員の話…といえばそれまでなのですが、資格や肩書き関係なく、日常の中でも、誰かが誰かと出会うということは、こういうことなのだろうなぁ、そういう風に出会っていきたいなぁと、最近では思っています。

そして、私自身も、いつも心中平穏なわけではない(!?)ので、日々鍛錬と勉強をしながらですが、プロとして、そして、一個人として、成長していけたらと思っています。

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