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スタッフエッセイ | 淡路プラッツ - パート 7プラッツからのメッセージ

出会いの不思議

自分の価値観を広げてくれたり影響を与えてくれたものはたくさんあって、例えば音楽・映画・マンガ・小説・言葉・人・景色など言い出したらキリがない。その中の一つである「出会い」について。

高校3年生の時に女子クラスになった。女子39名、男子7名。聞いた人はいいなーと言うが(特に男性は)、実際にはそんなことはなく女性パワーに圧倒される毎日で、文化祭のクラス発表では多数決で負け(そりゃそうだ)男子が女装をさせられたこともあった。

そんな肩身の狭い男性陣は休み時間も居場所がなく、やむを得ず教室の横にある非常階段の踊り場に集まることとなった(くれぐれも言っておくが女性陣に全く罪はない)。

では、男子7人は仲がいいかと言えぱそうではなく、どこかよそよそしくぎこちない。
なぜなら、第一に1、2年で同じクラスだった人がほとんどいない、いてもグループが違っていて話したことがない。
第二に思春期特有の面倒臭さも手伝って、話して深める努力をしたくない。
第三に、これはたぶん全員が思っていたことだが、「もし男子20人クラスやったらお前とは友達にならないね、だってキャラ違うもん」という姿勢だったからだ。

とはいえ毎日の圧倒的女子パワーの前に肩を寄せ合うしかない男性陣は、いつしかお互いを少しずつ理解しようと努力を始めだした。
すると確かにキャラが違う、性格もイマイチわからん、間が合わない、趣味もズレてるし、もう意味わからん。毎日が”合わないこと””認められないこと”だらけで、うまく交わらない日々が続いていった。
しかし、人というのは不思議なもんで段々慣れというのが出てくる。
相変わらずよくわからんなーという部分はありつつも、ん?…でも、ここはわかるかも。なるほど、ここは面白いな。あー、そういう考え方もあるか。別に悪い奴じゃないなあ、と少しずつ思うようになっていった。
その変化に自分自身もとまどいながら、でも同時に新しい考え方を知ることや自分の幅が広がっていくことに喜びを覚えたりもした。

あれから十数年経つが、他の”合うと思っていた入たち”よりも”変テコなキャラの男子たち”の方が結果的に自分の数少ない友人として今でも残っていることを、不思議に思うと同時に今ではとても感謝している。
やはり思い込みよりも体験をもって実感したことの方が残る、ということを身をもって知ったからだ。

そして現在僕はプラッツの居場所で、あの女子クラスだった時の体験をヒントにしながら、若者たちと関わっている。多くの若者が居場所に友達を求めてやってくるが(そうなればいいと僕も思うが)、それは確約できない。居場所は友達を作る場所というよりも、やはりいろいろな人と関わる場所であり、自分に気づき広げる場所なんだと思う。
最初はそのことに戸惑うかもしれない。でも、それは決してしんどいことなんかではなく、結果的に楽しみながらあなたの可能性を広げることが出来るいい機会であり、出会いなんだと僕は思う。
そんな出会いの不思議をこれからも伝えていきたいと思うし、それがスタッフの役割だと僕は思っている。

ゆうほどう2010年6月掲載
石田貴裕

カテゴリー: スタッフエッセイ

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雑談

雑談とは?多くの若者に聞いてみたところ「わからない」とか「難しい」とか「苦手」と感じている人が圧倒的に多く、得意と答える人はまずいない。
ある若者は、仕事は出来るけど昼休みの雑談のことを考えると苦痛に感じて働けない、とさえ言う。
では、雑談は必要ないかというとほとんどの人がでもそれは必要と答える。
では、雑談とは?ためしに辞書を引いてみると天気の話やニュースの話とは書いておらず、「はっきりした目的もまとまりもない話を気楽にすること」とある。
なるほど、この「気楽に」という一言が、若者のみならず大人も含めた雑談を苦手と言う人たちのハードルを上げるキーワードになっているようだ。

プラッツの仕事とは別に若者サポートステーションのセミナーをお手伝いする機会が時々ある。
その中で僕は雑談のコーナーを担当しており、そこには毎回10人前後の若者が集まるのだが、初めて参加する彼らは気楽とはほど遠く緊張の固まりで頑張って参加し、話をする。
誰からも嫌われてはいけないというプレッシャーと戦いながら会話し、間違ってはいけないというプレッシャーも抱えながら正しいことを言おうとする。
あるいは、浮いてしまわないようにとか話題の無さが露呈しないようにと考え過ぎてあまり喋らない。
すると、会話は途切れ気まずい沈黙が流れる。いずれも気楽ではなく、その頑張りすぎるくらい頑張る姿が痛々しくもある。

そんな彼らに最初に伝えることの一つに「参加者全員が仲良くする必要はない」というのがある。
当たり前のことだが、みんな嫌われたくはないのでもちろん仲良くすることを目指す。
しかしこれ自体が「みんなと仲良く出来なければどうしよう」というプレッシャーを生み、結果的に雑談の練習どころではないという悪循環を生んでしまう。
では、彼らが目指す実際の社会はどうかというと全員が仲良しではなくいろんな人がいて、合う人と合わない人というのが必ず存在する。
しかし合わない人のことが嫌いかというとそうではなく、ただ合わないというだけだ。
仮にその人が味方じゃなかったとしても無理に敵にする必要はなく 「合わない人=敵でも味方でもない人」として社会では遣り過ごすのだが、そのことを知らない若者は意外と多い。
だから最初に先の説明とともに全員が仲良くする必要はない事を伝えると、少し雑談が気楽になる要素になるようだ。

他にも伝えることはいくつかあるが、いずれもスキルとしての概念なのでそればかりに捉われていては雑談にはならない。
そもそも正しい雑談の方法などはなく、実際は経験を重ねる中から自分で獲得していってもらうことになるのだが、練習を続ける中で自分なりのコツやスタンスを見出す若者も少なくない。
その姿を見ていると、やはり人に教えられるよりも自分で見つけた経験の方がはるかに自信になるのだということを改めて実感する。

今の自分に出来ることは雑談の方法を教えることではなく、気楽に雑談の練習が出来る場所作りと参加する若者との気楽な関係性作りだと思っている。

ゆうほどう2009年6月掲載
石田貴裕

カテゴリー: スタッフエッセイ

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