AwajiPlatz 30Th

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NPO法人淡路プラッツ - パート 17プラッツからのメッセージ

NOと言わないメキシコ人

安原 彩子

12月のメキシコは街中がクリスマスの飾りでにぎわい、さすがカトリックの国だけあって約1か月かけてキリストの誕生を祝います。4月はハカランダが歩道を紫色に染めますが、12月は真っ赤なポインセチア(メキシコ原産!)がクリスマスを盛り上げます。クリスマスと対照的に、お正月を日本のように祝うこともなく、あっさり次の1年がスタートします。前回書かせていただいた「メキシコ=私の居場所」。今でこそ私の居場所と思えるメキシコは、始めは何ともオソロシー国でした。

Noと言わないメキシコ人

日本の面積約5倍の広さをもつメキシコ。首都のメキシコシティーはごちゃごちゃしていて人やモノが密集していて狭いようで、やはり広い。土地勘もない外国人の私は、道に迷う度に街を歩くメキシコ人に道を尋ねることがよくありました。「Todo derecho(ずっとまっすぐ)」、「Esquina a la mano derecha(その角を右)」と教えてもらったとおりに行っても…ん?着かない…?挙句の果てに歩いてきた逆の方向を言われたり…。今までメキシコ人に道を聞いて、「No se(ちょっとわかりません…)」「No conozco por aqui(ここら辺は知らないので…)」と言われたことはほとんどなく。オソロシーほど親切に答えてくれますが、無事に目的地へ着けたこともほとんどありませんでした…。親切なメキシコ人の言うことを半分信じてはまた別のメキシコ人に尋ねては自分で判断して進む。ということを繰り返しながら、最小限の誤差で目的地に辿り着く技を身につけました。メキシコではその他いろんなことも同様に、一歩進んでは三歩ほど下がることを繰り返しては自分で折合をつけながら進んでいく大切さを教えてもらいました。

 

メキシカン・ジョーク

メキシコでは家族や友達が集まって誕生日やクリスマスを祝ったり、特に何もない土曜日でも昼間からみんなで集まってご飯を食べたり飲んだりして過ごします。私も飲むことは大好きなので、サッカーを見たりドラマを見たりしながらメキシコ人といろいろ話して過ごすのは楽しい時間です。ビールやテキーラをいくら飲んでも酔わないメキシコ人が、いい感じにできあがってきた時に始まるのがメキシカン・ジョーク大会!みんな我こそはと、チステ(メキシカン・ジョーク)を言い始めます。が、オソロシーほど面白くない…。分からない。時事ネタから下ネタまで。子どもも大人も一緒に笑ってる。“全然笑えへんし…早く終わって…”と思っているのは私だけで、メキシコ人は私に構わず説明されても面白くないチステを繰り返し、さらに、「ジャパニーズ・チステ教えて」と、むちゃ振りしてくる…。そんなメキシコ人との飲み会を重ねていくうちに、「とりあえず、居てもいいか。」と思えるようになっていきました。チステはわからなくてもメキシコ人はオモシロイ。チステはわからなくても一緒に飲みたいと思える。同じ時間を共有する大切さを教わりました。

何ともオソロシー、楽しいことばかりじゃないのが「メキシコ=私の居場所」。イヤなことたくさん、面白いこともっとたくさん経験してメキシコが私の居場所になりました。安田が以前のスタッフエッセイ(ゆうほどう245号 表紙が仏像の号に掲載)にネガティブとポジティブのことを書いていましたが、まさに、メキシコは超ネガティブからの超ポジティブ変換国!そうすることで独自の文化や風習を創造してきたすばらしい国だと思います。

 

Noと言わないメキシコ人やチステを強要するメキシコ人ばかりではないので、是非、機会があれば一度メキシコの超ポジティブ変換を体験してみてください。

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やまびこ農場合宿終了!

おそらく20年前から行かせていただいているのではなかろーか。三重県のやまびこ農場。

有機・無農薬のお米やお野菜を作っているところです☆牛もいます。

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到着日の夜は極寒のBBQ。何があってもBBQだけははずせないプラッツ……。

 

やまびこ米を薪とお釜で炊く。これがまた最高に美味しいのだ~。薪割りは案外たのしいヨ。

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ちなみにお風呂も薪で。温まり方が違います。

今年は久しぶりに鶏シメもさせてもらった。シメ風景はショッキングなので普通の自炊風景を。

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また来年もお世話になります!!!

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登り窯と火

11/11、〝ハーベストの丘〟(堺市)の陶芸工房に3人で行きました。

この日は「登り窯」の火入れ。

9月に里山陶芸工房の体験メニューで湯呑み、ぐい呑み、焼酎呑み(なんか偏ってる?)をプラッツメンバーとスタッフの5人で作っていて、それがこの登り窯で焼かれているんです。

登り窯

このような窯はめったにないので、非常に貴重な体験。私たちが見学したのは2時間だけでしたが、工房の方のお話や〝火〟を見て過ごす時間、とても味わい深く感動でした……。火と土の存在感に圧倒され……。

薪の灰が釉薬になって、作品の色も肌触りも(工房の方はそれを“景色”っておっしゃられてました、なんかいい言葉やな)、出てくるまでわからないおもしろさ。

完成作品、またお見せしますね!

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会話

藤村 泰王

以前、ネットを見ている時に目に留まった本がある。その本は購入しようか悩んで結論を出す前にすっかり忘れていたのだが、たまたま本屋に寄ったときに見つけ、思わず買ってしまった。その本の題名は「お父さんがキモい理由を説明するね」(リンダブックスより出版)で著者の中山順治さんとその娘(中学生)がサシでマジトークした内容をまとめた本だ。

僕には2人の娘がいる。まだ幼稚園に行き始めたばかりだが、いずれ思春期に入り、キモいといわれる前に心の準備をしておこうと思って読み始め、まだ序盤と最後のまとめの部分しか読んでないがなかなか面白そうだ。著者は家族からも気持ち悪がられるほど娘を溺愛し、その溺愛ぶりを冷静に批判する娘が色々なテーマ(恋愛・死・生きる意味など)でマジトークしている。それを週1回、3ヶ月間続けたそうだ。

だからといって、将来、自分の娘とマジトークが出来るとは思わないし(出来るならやってみたいという気持ちもあるが…笑)、このエッセイを読んでいる皆さんに親子のマジトークを勧めているわけではない。しかし、若者本人の状況によってはチャンスがあればマジトークするのも若者にとって有意義なものだと思う。

 

 

プラッツでのテーマトーク

プラッツに来ている若者たちもこの娘さんと同じように自分の将来や現状、その他様々なことについてもしっかりと考えている。でもそれらを話す場所がないことや恥ずかしさ、自信のなさからくる「自分が話すことなんか聞いてもらえない」という気持ちなどもあり、多くを語らず、自分の胸の内に押さえ込んでいるように感じる。その証拠に面談の中や居場所の中で若者たちは、自分の考えや意見を話してくれるようになる。もちろん最初から自分の意見などを話してくれるわけではない。

プラッツでは普段何気ない会話の最中や毎週行われるナイトプラッツ(メンバーと一緒にお酒を飲みながらわいわい過ごす)で突然テーマト-クが始まることがある。そして、始まる確立はかなりの高確率!その場にいるメンバーやスタッフ関係なく1つのテーマについて全員に話が振られる。誰かが話し終わると質問したり、途中で突っ込みを入れたりするが最後まで聞き、自分はこう思うなんて意見が出たりすることもある。否定されることなくちゃんと聞いてくれる人がいることで話が出来るのだろうと思う。

 

親子だけでなく

書籍の中で著者は、子どもと話すポイントに自分と子どもの話す量を半々にすること、親の立場を捨てることを意識したほうがいいと書いている。親目線で話すとどうしても「こうしたほうが良い」「それは間違っている」「社会にでたら…」ということを言いたくなり、説教くさくなってしまう。なるべく子どもの意見に耳を傾け、「なぜそう思うのか」を聞くことで子どもの本心を聞き出せたそうだ。

書籍の中のマジトークは著者とその娘さんだから出来た話なのでどの家族にも当てはまる方法ではないが、親子として話すのではなく、1人の人間同士として話すことはどの家族にでも使えるだろうと思う。そして、1人の人間として話すことは親子だけでなく、友人、同僚、上司、部下など全ての立場の人との間に有効だと思う。

 

今回は僕のエッセイでありながら「お父さんがキモい理由を説明するね」の著者中山順治さんの言葉を引用させてもらうことが多かった。次回のエッセイの時には自分の言葉で書きたいと思う。

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日はまた暮れる

金井 秀樹

ここ数カ月は毎日2駅分を歩いて、夜景を見ながら帰るようになりました。大体徒歩15分~20分程度だから、大した距離でもないけれど、すっかり最近の自分の「毎日できることリスト」(ちょっと大袈裟。笑)の1つに登録されています。

ところで夜(もちろん日によって時間帯は違いますが)9時以降にもなると、終点の駅の改札を抜けて、地上に上がり、橋を渡り終わった付近には、いわゆるガールズバーと称されるお店や、その他、少しいかがわしそうな(主観です)飲み屋さんの客寄せのオニイサン・オネエサン達が立ち並び、「これからいかがっすか〜。」とか、「どうです、お安くしときますよ。」と盛んに声をかけてくる場所があります。どうしてもそこを通らないと帰宅お散歩コースの川縁に降りることができないにも関わらず、最初のうちはこちらの進路を完全に塞いでまで、熱心な勧誘をして下さるオニイサン、オネエサンもいて、「丁寧なお断りなどできかねる」状況も度々あったものでした。でも断り方を失敗(声を荒げたり、無視したり)すると、散歩始めのこちらの気分が良くないのだけれど、オニイサン・オネエサン達も必死(多分ノルマがあるのでは?)で簡単には引き下がらない。だがこちらも行くつもりはない。ということで、その後の散歩を快適にするためにも、何かいい断り方の方法はないものかと思案してみることにしたのでした。

自分の容姿を客観的に眺めてみたり、遊び心も加えて、まず最初に考えたのが、「香港から来たガイジン」になること(笑)。「ハァン?」とか「パードゥン?」とか。オオ!でも聞き返すこと自体が既に自分から寄って行ってしまっているではないか!余計に面倒なことになりそうだ。ということで実施前に却下。次に最初から目を決して合わせない方法。でも逃げれば逃げるほど追ってくるのが、オニイサン・オネエサン達の本能なのです。今まで以上に進路妨害の頻度が高くなってしまったのでした(泣)。じゃあサングラスはどうでしょう?視線を読み取られることもないですから。いやいや、わざわざ夜にそんな格好する必要もないし、今度は違う制服のオニイサン・オネエサン達に声をかけられそうではないか。「免許証見せて」とか「家はどこ?」とか・・・。それはもっともっと面倒だ!

色々と頭の中で考えては見たものの(ほぼ妄想ですが…)、結局のところそんなに色々試してみる必要もなく、しっかり相手を見つめてちょっとこちらも微笑みながら「ああ!ゴメンね〜」(タイミングが絶妙に重要ではある)と言いながら通り過ぎると、不思議と直ぐに諦めてくれることが分かったのでした(もちろん断る人によって違いはあると思います。ええ)。

ところでこちらは毎日そこを通りはするけれども、時間帯による交代制なのか、入れ替わりが激しいのか、もしくは着ている服の印象で変わるのか分からないけれど、客寄せに立つオニイサン・オネエサン達は時間帯や日によって違う顔ぶれが多いように感じられて、「あれ、この間のしつこい進路妨害のオニイサン最近見ないなぁ」ということもあります。ほんの少しの寂しさと共に。

ところがある月が綺麗で風が涼しげな9月のある日の夜、いつもの様にその場所を通りかかると、比較的何度も顔を合わせているオネエサンが、ナント!「今日も!いい天気ですね。」と声をかけて下さったのです。いやはや恐れ入りました。あまりの衝撃に心動かされて、一瞬足を止めそうになってしまいました。こちらはなんとか足と口を動かして「・・・うん。またね。・・・」と手を振るのが精一杯。

でもその日は晴れやかでほんの少し心暖かな散歩が出来たのでした。

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光陰矢のごとし(2014)

安田 昌弘

今年も早や1年の2/3が過ぎ去りました。プロ野球シーズンが終わりを迎える秋は、私にとっては憂いの時期でもあります。ある意味、私の中ではすでに今年は終わったも同然。ついこの前新しい年を迎えたはずなんですが、もう大晦日の心境。「あっ」という間に1年の2/3が過ぎるくらいです。残り1/3なんて、「あ」ともまともに発音できないくらい、瞬く間で過ぎることでしょう。とにかく、あまり時の経つのが早いのはやめてほしい。「あっ」という間のことで、体感では気づかぬまま、確実に身体のあちらこちらに下降線となって刻まれている… それを果たして年輪というのだろうか…

日ごと、寒くなり、日照時間が短くなるダークネスな季節、ネガティブモード全開です。

 

ネガティブシンキングは良くないのか?

と、ネガティブな面持ちではありますが、私はもともとネガティブシンキングの持ち主です。自然な流れで後ろ向き、さまざまな事柄について、頭の中で目まぐるしくネガティブ展開していきます。ネガティブとは、否定的、消極的、悲観的ということで、ネガティブな人、性格というと一般的にいいイメージは持たれません。しかし、これはあくまでも単に印象ではないかと。根っきりこっきり悲観的で、後ろ向きな人なんてどこにもいないのではないでしょうか。人生、より良く前に進もうと思うからこそ、そのマイナス要素であるネガティブな道が、たくさん、そしてより太く見えてしまうだけなのだと思います。本質的に、人はみな自分を肯定し、ポジティブでありたいと思っています。

ネガティブシンキングには、慎重に物事を見つめ、考えを深めたり、冷静な判断ができたりといい面もたくさんあります。あらゆる困難、課題に対し、常に、冷静に物事をとらえ、あらゆる面から試行錯誤し、局面の打開を図るためこれまでには考えも寄らなかった新しい発想や方法を発見し、光明を見いだす。変ですが、ポジティブなことだらけです。ただ、やっかいなところは、ネガティブシンキングと完全主義は相性が良く、あまり行き過ぎると『重箱の隅をつく』ではないですが、暗黒面にどんどん浸かっていってしまいます。結果、「これは完璧」と思慮を尽くしたであろう道とても容易には飛び込めない。「何か落とし穴があるのでは」と、さらにもつれにもつれるネガティブシンキング。その新たな方向も分かれ道、功罪有り、無性に気になります。『罪』の方が… たまらなく気になります。うずうずします。 -むしろ、その落とし穴を探すのが好きだったりして- 完全無欠は永遠の彼方へ。未来は見通せるなら見てみたいですが、今見切ろうとしても無理があります。

 

ポジティブであるために

普段、私は面談を通して、親御さんそして若者本人のお話をたくさん聴かせてもらっています。親御さんは子どものことで悩み、不安や焦りに苛まされ、とてもネガティブな状態にあります。また、当事者である若者もうまくいかなかったことが素ともなり、性格的にかなりネガティブな面が顕著となっています(それがゆえ、私は若者にとても親近感を覚えるのですが)。しかし、ネガティブには本来ポジティブな側面があるのです。ポジティブにイメージすることはできても、どうしてもその中のネガティブな予測が顔を覗かせることはありますが、ポジティブな面を意識し、行動することが秘策だと思います。はじめの1歩目講座では、親御さんには少しでも気持ちを楽にしてもらえるよう、『ポジティブであるために』ということで、発想の転換を図ってもらっています。若者には、ネガティブな空気が漂うダークサイドにおいて、少しでもポジティブな要素(笑い、安らぎなど)を見つけてもらえるよう日頃から接しています。

物事は、ポジティブに考える方が好転していくとも言われています。ネガティブの人の最良の未来予測の方法は、ネガティブの中でのポジティブ転換ではないかと思います。行ったり来たりにはなりますが、そのバランスの持ち方が大切なのではないかと思います。

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“居る”場所

浅井紀久子

今年もまた、暑い夏がやってきました。個人的には、暑いのが苦手で、毎年夏が終わるころには身も心もクラクラ…です。

 

実はこれまで、結構な割合で〝事務の人〟をやっていたのですが、ここ最近は居場所に参加できる機会が増えてきました。そこで、自分なりに居場所について感じたことを書いていきたいと思います。

 

◆“体験”を“共有”し“気づき”を得ていく◆

もうすでにご存じのとおり、居場所には様々なプログラムがあります。お出かけ・クッキング・アート・映画観賞・カラオケ・徹夜で過ごす・そして、旅行…“まったりする”も、ひとつのプログラムだったり(笑)。

その中で、個々人は他者と関わる中で、ひとつひとつ体験を重ねていきます。それは、リアルタイムで生じていることです。それぞれの体感として何が起こっているのかは、聞いてみないとわかりませんが、小さくても確実に揺れ動きはあります。例え、その時点ではまだ言葉にできなくても。

そして、それは共有されていくものでもあります。一緒に何かを作り上げるとか、一緒に何かを見るとか。同じ時間・同じ空間を共有したもの同士、通じ合う瞬間が訪れたりします。ふとした間で笑いが起こる。いいことばかりではなく、ふとした瞬間に「あれ?何か違う…」と思うことが生じることもある。

そして、その瞬間に感じた体感を、言葉にしていきます。それは居場所の中だけではなく、主にスタッフとの振り返り面談の中で行われたりもします。その時点で、かなり気づきに近づいてきます。自分が、体験して、感じたものは、何だったのか…。振り返りのなかでは、過去のしんどかった経験の再体験も含め、困ったことやイライラ・不満などが、主に出てきます。それらを一つずつ、何が・どうして・どう感じたか…などの視点から、振り返ります。その中で、自分の物事の捉え方に新たな気づきがあったりします。

ただ、楽しかった・嬉しかった、は話として聞けるものではあるけれど、その瞬間に同じ場にいないと共有できにくかったりするのですが…。

 

◆そこに“居る”こと◆

そういったわけで、居場所には瞬時に通り過ぎる何かがあり、そこに“居る”中で、経験になります。それらの積み重ねが、苦手意識があったけどできた!という達成感・誰かの手助けになれたのかもという、ちょっとした自己肯定感…になり、自信につながっていきます。

最初は頑張って“居る”場所、それが自然体で“居てられる”場所へ。

 

今回は、瞬間の体験と感情面から書いてみました。居場所自体には様々な側面があり、現実的にコミュニケーションスキルや社会性を獲得していく意味合いもあります。生活リズムを整えることを目標にすることもあります。

やっぱり居場所って奥深い…。

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『表現×プラッツ』

宮武 小鈴

まっ白い紙に、最初に線を引くとき、ためらいませんでしたか?小・中学校の図画工作の時間を思い出すとき…。

それにいつからか慣れて、思い切りよく描けるようになっていませんか?それともまだ、緊張したりしますか?

 

《感じる×深める×広まる》

昨年度から、メンバーと『アートプラッツ』という時間を定期的に設けるようになりました。自分でしておきながらなんですが、実は〝アート〟という言葉が大嫌いでした(笑)。軽々しくて、簡単に使われていて、でも本質的な深いところはマジョリティに受け入れられないままにアピールだけしようとしているイメージがあって。

現代美術の要素の一つに〝異端〟だったり〝マイノリティ〟的なものがあります。それは、ある種既存の概念を壊す役割があるからです。作品は、創る者がそれぞれの○○……例えば心の内側?例えば神?命?何か賭けるもの……、と向き合って出てきたなんらかの形だと認識していますが、それと大衆の融合ってありえない…。でも反面、その創り手の「感受性」は理解されるようになったらいいのになと、広まったらいいのになと思っていました、もちろん今もです。一人ひとりの感性が深まって、広がって、それで世界が“平和”になるようなメッセージが“表現されたもの”にはあるといえます。

 

近頃、“アート”なるものはだんだん市民権を得はじめているような…いやかなり得ています。例えば草間彌生の作品が駅のポスターになっているなどかなり象徴的です。20数年前は彼女の作品は美術手帖等でしか見たことなく、当時いわゆる「美術おたく」と言われていたような(笑)人々の間でしか知られていませんでした。

また、昨年も居場所で旅行しましたが金沢21世紀美術館など現代美術の展覧会に、老若男女が気楽に来ているのをみると、感性進化論的(どんな論だ)には日本は繁栄している、と感じたりもします。

 

《感じる×続ける》

ところで、ホットな話題(←言い回しが古いな…)ですが7/9に南河内プラッツで「プラッと描いてみよう」というイベントをしました(このゆるいネーミングは某スタッフヤスハラさん)。パネル2枚をつなげて参加者7人の合作。結果、傑作。今月のゆうほどう表紙がそれです。このコラボレーションの醍醐味は『自分以外の人の感受性をライブで見て、聞いて、感じる』ことをシンプルにできるところです。と同時に、『自分の表現を味わってくれる人がいる』ことです。“ひとりひとり、人間って違う”(どっかのキャッチコピーみたい…)というけど、感じ方の違いを日常で意識して体感することは少ないと思います。例えば家族間、親子間、友達間、ご近所間……特に共感して生きざるを得ない間柄では……。

このコラボでは、同じ「お題」で線・形を描きます。例えば今回の大テーマは『台風』(皆で決めた)。その中で出てきた言葉、「ピカッと光る」「オキナワ」「ビューっと」とかを感じながらそれぞれに線を描く。テーマは同じなのに、色や線、形を、自分では想像もできないものを他の人が描く。そのとき、コトバにできない発見とか納得とか理解が生まれたり……(シンプル!)。これを、『最小単位の異文化交流』と呼んでいます(!)。

 

さておき、この『感性の世界』。色、形、音……すなわち、アート・音楽は、言葉以前の世界のものともいえます。体験することでよくわからないけど元気が出たりします。それは、シンプルで根源的つまり人の「生命」レベルの原始的な状態にコミットしているからだと。

 

某音楽学者がどこかでこのようなことを言っていましたが、「楽曲を理解したかったら何か楽器をやったり歌ってみたらいい」と。

『アートプラッツ』は自分の感性を理解するために「やってみる」。それを、一緒にやります。“絵”が描けなくてもOK。一緒に線を引こう、形つくってみよう、感じ続けよう、感じたことは言葉にしてみよう……この繰り返し。

『その時、自分がどう感じたのか』をしっかり捉え続けていく、これを進化させてイイもワルイも超えて正解のない「自分の感覚を信じる」ことができるようになる日。

 

ためらっても、不安でも、なんだかわからなくてもOK。

結果、白い紙に自分が引いた線をなんだかイイ線やな、と感じることができるまで…。

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